ユーモアと文句の塊の様な猫による、痛快な人間評。
この本は高校生くらいの時に読もうとして、最初の方で読むのを止めてしまった事がある。その時はこの本の面白さが分からなかった。それから大分時間が立って手に取ってみたが、今度は最後まで読むことが出来た。それも苦労して読んだわけでは無く、内容が面白くてのめり込んで読むことが出来た。昨日、新潮文庫が出している夏目漱石の文豪ナビを読んでみたら、漱石作品の中ではこの「猫」はどちらかと言うと大人向けの作品であると書いてあった。高校生の時の自分に理解できなかったのも何となく腑に落ちた気がする。
どこらへんが大人向けだったんだろうと、読んだ後で考えてみた。読んでいる時の感想は、まずところどころに散りばめられたユーモアが面白いということ。隙あらばユーモアを入れ込んでくる。それが、真面目に事細かく言うからなお面白く感じてくる。これが人が言っている事だったら、こんなに面白く感じないんだろうなと思った。猫が真面目に言っているからこんなに面白いんだろう。多分、昔はこのユーモアが理解できなかったんだろう。
実際は当然猫が言っている訳ではなくて、漱石が猫に言わせているんだけれど、本当に猫が人間を見た時にこう思うかもしれないなということを言わせているからすごい。よほど先入観が無く物事を見られることと、初めて見るもので無いと気が付かない様なところに気がつく観察眼があるんだろうなと思った。
また、この作品は明治という時代に書かれているため、西洋の文化がどっと日本に入ってきた、時代の変換点が色濃く反映されていると思う。そんな部分が出ていて、印象に残っているところを引用する。
昔の人は己れを忘れろと教えたものだ。今の人は己れを忘れるなと教えるからまるで違う。
これは、現代のギスギスした閉塞感みたいな物にも言えることの様な気がする。俺が俺がではぶつかるに決まっている。
他にも印象に残った好きな箇所がたくさんあった。一通り引用したい。
当たり前さ結論のない演舌は、デザートのない西洋料理の様なものだ、
何のために、かくまで足繁く金田邸へ通うのかと不審を起すならその前にちょっと人間に反問したい事がある。なぜ人間は口から煙を吸い込んで鼻から吐き出すのであるか、腹の足しにも血の道の薬にもならないものを、恥かし気もなく吐呑して憚からざる以上は、吾輩が金田に出入するのを、あまり大きな声で咎め立てをして貰いたくない。金田邸は吾輩の煙草である。
このほか五分刈、三分刈、一分刈さえあると云う話だから、しまいには頭の裏まで刈り込んでマイナス一分刈、マイナス三分刈などと云う新奇な奴が流行するかも知れない。
何が奇観だ? 何が奇観だって吾輩はこれを口にするを憚かるほどの奇観だ。この硝子窓の中にうじゃうじゃ、があがあ騒いでいる人間はことごとく裸体である。台湾の生蕃である。二十世紀のアダムである。
インスピレーションも実は逆上である。
天気の悪るいのになぜグード・モーニングですかと生徒に問われて七日間考えたり、
こうなると人と人の間に空間がなくなって、生きてるのが窮屈になる。出来るだけ自分を張りつめて、はち切れるばかりにふくれ返って苦しがって生存している。苦しいから色々の方法で個人と個人との間に余裕を求める。
呑気と見える人々も、心の底を叩いて見ると、どこか悲しい音がする。
最後、登場人物が各々の持論を展開するところが面白い。夏目漱石が思っていたことをキャラクターに言わせているんだろうなあと思った。特に全体に大きな物語があるわけでは無いが、小説の形を借りて持論を語る形式は面白いと思った。
ありきたりな表現だけれど、古典なのに新しいと思った。
これも青空文庫で読める。