サリンジャーのグラース家シリーズの短編二編。

サリンジャーの本は定番の「ライ麦畑」から始まって、「バナナフィッシュ」などを読み、お気に入りの作家の一人。この本は文庫本になっているサリンジャーの著作では、読み残していた最後の本になる(と思う)。もう読み残した物語が無いと思うと、少しさびしいような気がする。

「大工よ」の方は全体的にドタバタした感じで話が進んでいく。結婚式に現れなかった兄のシーモアを散々批判されながら、その話を我慢して聞く弟のバディ。自分がその立場ならさぞフラストレーションが溜まると思って読んだ。

散々非難するのが花嫁の介添え役の夫人なのだが、思ったことをズバズバ言う気の強い女性という感じ。ただ、よく考えたら結婚式に来ないほうが常識を欠いている様な気がするので、非難されるのも当然なのかもしれない。

常識で考えたら非難されて当然の立場のグラース家側なのだが、介添夫人の性格の悪さっぷりと、自分なりの哲学を持って行動しているシーモアと、そんな兄を慕っているバディの様子を読んでいるとどうしてもグラース家側を応援したくなってくる。

「シーモア―序章―」は、40歳のバディが亡き兄シーモアについて延々と綴っていく話。中年のバディが文章を思うままに脈絡無く、止めどなく綴っていく様子を想像した。

シーモアについての幾つもの断片が綴られて行くが、その中で幾つか好きな箇所があるので引用したい。

まさに一茶の名を口にすることは、私に真の詩人は素材を選ばぬという確信を与えてくれる。明らかに素材が彼を選ぶのであって、彼が素材を選ぶのではない。

シーモアが、道の向こうの縁石のところから、アイラ・ヤンカウァーのビー玉を狙うのをやめるようにコーチしてくれたとき―――彼が当時十歳であったことを忘れないでいただきたい―――わたしは、彼が、日本の弓の達人が片意地な新弟子に与える、的を狙わないようにという教えのなかに、精神的に非常に近い何ものかを本能的に感じとっていたにちがいないと信じる。つまり弓の達人が「狙う」ことは許しても、狙うことを許さぬというあれである。

サリンジャーの話の中には中国の故事やここに引用した日本の話など、東アジアの国のエピソードが出てくることがある。サリンジャーの頭の中では西洋の思想と東洋の思想が交じり合っているところがあるのかなと思い、何となく親しみが湧く。また、単純に嬉しく思ったりもする。

この「シーモア」は読み様によってはものすごく退屈に感じる話かと思う。実際に自分も何回か退屈に感じ、読むのが苦痛だった箇所もあった。本文の中で、なぜこんなにくどい分析を書いているかに言及している部分がある。

甲高く不愉快な声(わが読者の声ではない)。あなたは兄さんがどんな様子だったか話すと言ったじゃありませんか。なにもこんなつまらぬ分析やべたべたしたことはききたくありませんよ。
だが、わたしはそうじゃない。こうしたべたべたしたことのひとつひとつが必要なのだ。たしかに分析をここまでやらないでもすむが、こうしたべたべたしたことのひとつひとつが必要なのである。もしわたしがこの文章について筋を通したいと祈っているとすれば、それを実現してくれるのはこのべたべたしたものなのだ。

大事なものというのは、きれいな形をしているとは限らず、案外泥臭い文章の中にあるのかもしれないと思わされた部分だった。それを「べたべたしたもの」と表現しているのが独特の感性で、サリンジャーのこういうところに惹きつけられるんだなあと思う。もちろん訳者の方の仕事でもある。

サリンジャーの本は「ハプワース16,1924」を残すのみ。自然に本に手が伸びるのを待ちたい。

カテゴリー: 本の感想

memom

都内在住会社員。 物心ついた時から読書好き。 読んだ本を忘れない様につらつらと感想を書いていきます。

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